インタビュー「楽器と人」

vol.05

作・編曲家と演奏家、
2人の自分が切磋琢磨

南澤大介

Profile
ギター楽譜集としては異例とも言えるヒットとなっている『ソロ・ギターのしらべ』シリーズの著者であり、フィンガーピッキング・ギター奏者として活躍する南澤大介さん。作・編曲家としての活動も幅広い南澤さんの、現在に至るこれまでの音楽街道を中心に、お話をうかがった。

ダブルカセットデッキでピンポン録音!

 ——南澤さんと楽器との出会いについて教えてください。

 音楽好きな両親の影響で子どもの頃から音楽を聴くのは大好きだったんですが、音楽の授業は嫌いでした(笑)。初めて触った楽器は小学校で習った縦笛。それも最初は苦手意識が強かったんですが、だんだん吹けるようになると褒められるし楽しくなっていって。ソプラノとアルト以外にもソプラニーノなんて縦笛まで、自分で買って持っていたぐらい熱心にやっていました。

 ——ギターはいつ頃弾き始めたのですか?

 ギターも実は授業で出会ったんです。中学校でした。それまでも家にギターがあって、両親から弾け弾けと言われてはいたんですが、あまり興味を持ってなかったんですよ。ところが授業で弾くようになって夢中になりました。

 年代がすっかりばれますが、初めて自主的にギターを弾いたのは『熱中時代』というドラマの主題歌だった「やさしさ紙芝居」。雑誌に載っていたコード譜を見て弾き語りしましたね。

 ——それからは学校の授業と独学で練習していかれたんですか?

 練習というより、ただ楽しく遊んでいたというほうが正しいですね(笑)。YMOやアール・クルーが大好きだったので、よくレコードに合わせてメロディーを弾いていたんです。YMOはバイトで買ったシンセで弾いていましたが。

 ——鍵盤楽器も弾いていたんですね。

 そうなんです。最初に買ったシンセは中古のコルグMS-10。モノフォニックシンセだから単音しか出ないんですが、そんなの買うまで知らなかったから愕然としましたよ(笑)。

 ——メロディーだけとは言え、難しい曲を弾いていたんですね。

 結果としては、ギターも鍵盤もそれで自然と鍛えられたのかもしれないです。でも中学生の頃から“あの人みたいな演奏ができるようになりたい!”というよりも、“あんな曲が書きたい!”という気持ちのほうが大きかったんです。この曲はなんで気持ちがいいんだろうとか、プレイより曲の構成のほうに興味がありました。

 高校生になってからはダブルカセットデッキやマルチトラックレコーダーを手に入れて、ピンポン録音でオリジナルの曲作りをやっていました。やっぱり時代がばれますね(笑)。

 ——懐かしい単語です(笑)。バンドはやらなかったんですか?

 音楽の授業でやることはあったんですが……。授業とはいえ、スタジオを借りてリハーサルをするような、結構本格的なものでしたが、個人的にはそこまでのめりこまなかった。音楽は全部自分でコントロールしたかったんです。アンサンブルって1+1が2以上になる何が起こるかわからない面白さがあると思うんですが、僕は1+1できちんと2という正解が欲しかったというか。だから弾き語りとか、ピンポン録音で自分の音を重ねていく一人バンドという形で楽しんでいました。

音楽で生きていくだろうと漠然と思っていた

 ——曲作りは独学でやられていたんですか?

 誰かに習ったということはほとんどなく、高校生のときから一人で作っていました。ただ五線譜は読めないし書けなかったので、流れだけメモに書くような形で作っていました。五線譜で楽譜が書けるようになったのは大学に入ってからか、もっと後か……人に伝えるなどの必要に迫られて覚えたような感じです。

 それでも、大学に入った年にはクリスマス・アルバムをカセットで作りましたから、それなりに曲数は作っていましたね。

 —— 一人でアルバムですか??

 そう、絵本付きのコンセプト・アルバム(笑)。オリジナルの物語に合わせて、曲を書いたりアレンジをしたり、サントラをイメージした作りでした。大学のギターアンサンブル部に入っていたので、部室でドラムやウッドベースも録音して、完全に一人での制作です。

 ——音楽を職業にしよう、プロになろうと思ったのはいつ頃からでしょうか。

 うーん、いつなんだろう……(笑)。というのも、僕は親父が作詞家というちょっと特殊な職業だったこともあって、いわゆるマスオさんのようなサラリーマンに憧れる部分はあっても、具体的な社会人としてのビジョンはイメージしにくいところがあったんです。裏を返すと、音楽を仕事にするというより音楽をやって生きていくんだろうなという感じが、子どもの頃からあったというか。

 ——音楽の仕事を始めた具体的なきっかけは?

 1年で大学を中退したあと、ポニーキャニオンでデスクのバイトをしていたんです。そのときウィンダム・ヒル・レコードの仕事で音楽プロデューサーの日向敏文さん、大介さん兄弟と知り合い、自分の作ったカセットテープを渡したりしていました。それを聴いてくれた敏文さんから、いきなり“ちょっとギターを弾いてほしい”と言われて。それがギタリストとしてのデビューでした。

 そもそも演奏志向ではなかったので、演奏家としてのプロの道は大学の頃にあきらめていたのですから、何があるかわからないですよね(笑)。その後、『愛という名のもとに』や、『ひとつ屋根の下』など、全盛期だったトレンディドラマのサントラのレコーディングを何作かお手伝いし、スタジオで弾くというのがどういうことかを学ばせていただきました。

 ——そこから本格的に音楽のお仕事が始まったんですね。

 ところがそのあとレコード会社のバイトも辞めて、普通に全然別の会社に就職をしたんです。会社での仕事のあと夜中にレコーディングをし、仮眠してまた会社に行くというような生活を、毎日ではないですが、6、7年は続けていました。合間に作曲や編曲のほうで、テレビや演劇の仕事をやっていて、はっきりとした展望が見えたわけではありませんでしたが、30歳をすぎたときに、“40歳、50歳になってもここ(会社)にいるのは違うんじゃないか?”と、思い切って辞め、音楽の道に専念するようになったんです。

“奏者の自分”を、“作曲家の自分”は認めない

 ——南澤さんのギタープレイと言えばフィンガーピッキング・スタイルですが、始められたのはその頃ですか?

 大学の受験勉強をしていた頃に、歌入りの音楽を流していると気が散るのでインストを聴くようになったのがきっかけですね。FMラジオの雑誌でギターのアーティストの番組をチェックし、ギター音楽ばっかり聴いていたんです。ウィンダム・ヒル・レコードのマイケル・ヘッジスやウィリアム・アッカーマンなどの曲を聴いて“ギター1本でやるのって面白いな”と、自分でもやってみるようになり、大学に入ってもどっぷり。

 弾き語りもいいんですが、イントロとか間奏がコードを弾くだけでちょっと暇じゃないですか(笑)。それでメロディーを入れてみて、さらにちょっと複雑にしたのがフィンガーピッキングだと、僕は思ってます。

 ——そう聞くと、なんだか簡単にできそうに思えてしまいますが、実際はかなり高度なテクニックが求められますよね。

 “フィンガーピッキング奏者”としても仕事をしているのであまり大きな声では言えませんが、作・編曲家としての僕は、演奏家としての僕をあまり評価していないんです。“打ち込みのようになってもいいので、もっと正確に弾けよ”とか、“バランスが悪い!”とか、聴けば聴くほど、細かいところが気になるんですよね。演奏家としてはイマイチ(笑)。

 ——ご自分に厳しいんですね。ライブやイベント、講座などもたくさんやられていますが。

 例えば僕の出版物についての講座やイベントならば、“あのアレンジをどうやって弾いているのか見たい”という人も多いでしょうから、僕がやる意味はあると思ってるんです。でも生演奏に関しては練習が基本的には好きじゃないし(笑)、物理的に無理な要求を作曲家の僕がしたくなるので、ジレンマがあります。

 ——物理的に難しいことまで(笑)。

 “絶対に指が足りないけどなんとかここは音を止めたい”とかね。結構、響きをコントロールする欲求は強いんです。2001年にモーリスで1台目のシグネチャーモデルS-121SPを作ってもらいましたが、Sシリーズのコントールのしやすさは抜群。6、7年はこの1台だけで活動していたぐらい愛用していました。その後2014年に作ってもらった2台目のシグネチャーS-131Mは弾き心地はそのままで、シトカスプルースとローズウッドならではの、きらきらとしたサウンドがプラスされました。これもとても扱いやすい楽器です。

 ——最後に、ギターがうまくなりたい人へ、アドバイスをお願いします。

 練習をいかに楽しむか、これに限ると思います。僕自身も練習があまり好きではないんですが、子どものときの無我夢中になって弾いていた頃を思い出してモチベーションを維持してください。大人になるほどいいものを聴いていることもあって、“これだけ練習したから、あれぐらい上手くなっているはずだ”と思ったりするんですが、なかなかそうはいかないんです。憧れのアーティストの演奏を聴く、いいギターを買っちゃう、新しい楽譜を弾いてみる……自分に合った燃料をじょうずに投下して、弾きたいときに楽しく弾いていくこと。結果、昨日よりも“ちょっと”上手くなっている。その積み重ねが上達への道だと思います。

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